ちいさな善と小文字の悪と〜またまたエルピス【日記】 | フーテンひぐらし

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永遠の放課後。文化祭前夜のテンションで生きたい。なかなか大人になれない。

 

寒い!寒いね!
私はまいんちこの時期恒例の「あー沖縄帰りてえ」をつぶやいている。
毎年12月初旬に沖縄に行くので(TwitterにUPした「沖縄うまかったもの」は後日こちらにもUPします)帰京して年末に至るまではずっと言っている。

沖縄のことは何十年も鬱陶しく恋したままだけど、もちろんユートピアだとは思ってないし私の理想がそこにあるとも思っていない。ただ「あの土地にいる自分」が落ち着くだけだ。気になりつつも落っことしたまま忘れてく何か(沖縄にあるものでなく、自分の中にもとからあるもの)を、ちまちまと拾えるからだ。
のっぴきならない年齢になるごとに「このまま東京からたまに旅行するという立場で生涯を終えていいんか?」と自問自答する。

東京に帰るとあっという間に情報と現実に押し流されて寒さにくるまれ、気づけば年の瀬。

昨日のエルピスを今日観た。第9話。
村井さん、村井さん、村井さん…!

「野心と欲望のバブル世代」という自称でいきなり理解が深まった。私もバブル世代のしんがりだから。わがまま。傍若無人。感情的。我田引水。(バブル世代じゃなくてただの私の欠点では…?)彼が登場した時の嫌悪感は同族(同世代)嫌悪なのかもしれなかったな。
「年食ってもうだめだ」と泣いてたはずの彼の目がぎらぎらと光を帯びてた。もしこの世に「侠気」というものがあるなら、岸本に自身の手柄を渡したあの村井さんのことを言うのだろう。斎藤と並んだ時、上っつらでは何もかもがイケてるvsイケてないの並びだったにも関わらず、圧倒的に格好良かった。惚れ惚れした。セクハラ癖も姿勢の悪さもぼさぼさの髪も、何ひとつ変わってはいないのにね。

実家に戻って身綺麗になった岸本も、大看板を背負った浅川も、カゴの中の鳥のよう。ちゃんとご飯が食えてない。振り出しにもどったかのような錯覚。
それでも孤立無援の岸本にバブル世代オッサンずの援護がついた。そして「ずっと背負ってゆくもの」をどうしようもなく抱えてしまった同志のような人と出会い、お互いが少し救われる瞬間を共有した。
背負っている「それ」のせいであたたかい場所から身を引くしかなく、人は離れてゆき、本人は不幸せになったように見える。でもそれは彼らにとって「掌中の珠」なのかもしれないと思う。男性ブランコが運ぼうとした八分音符みたいに、先端に刃のついてる球だ(突然のM-1ネタ)。「血ぃ流れてるけどなんか、よかった」と思った。

だけど彼らの現状は現実の事件や疑惑にシンクロしすぎている。レイプ事件も、不意の自死(いや他殺)も。「巨悪を追い込む過程で重要な証人が消される」というのはサスペンスの定石だけど、今作は現実に即しすぎてるのでフィクションとして「あるよねー」なんて呑気に思えなかった。ただただ、怖くて、かなしくて、あんまりにもあんまりだと思った。
同時に「私は現実の被害者に同じくらいそう思っただろうか」と振り返ってしまう。そのとき私はすっかり他人事じゃあなかったかと。現実に起こったことなのに。

息をのんだまま、ラストの村井さんの大暴れになだれ込む。観ているうちに涙が出た。
意見を口にしようとするとき、まず立ちはだかるのは「巨悪」じゃない。「ちいさなちいさな無数の善」だ。良かれと思って色々アドバイスをしてくれたりする。こういう方法もあるよ。次があるよ。今は落ち着こう。怒ってもしょうがないよ。
私たちはどこまで飲み込めばいいのか。クールに俯瞰すればいいのか。おとなしく、語らないまま、諦めればいいのか。うるせえな、そんなのまっぴらごめんなんだよ。訳知り顔しやがって、もっともらしいこと言いやがって、平らかにすることばっかり考えやがって、ばかやろう。

村井さん、代わりに暴れさせてごめんって思った。

俺らバブル世代、若者に説教するヒマあったらまず自分たちがクソな社会の窓ガラス割れよ。

 

…というふうに「エルピス」は「フィクションとして楽しむ」が全然できないのでしんどい。全部自分と現実に投影してしまう。食らってしまう。毎度毎度言うけどすごい作品であるよ。


「ところが現実には戦いなどどこにもなかった。ただ優柔不断な小競り合いがあるだけだった。そして悪はただ一つの顔ではなく多くの顔を持っており、どの顔もみな間が抜けていて、しばしば顎をよだれで濡らしていた。
実際のところ、彼はこの世の中に大文字の悪など存在せず、あるのは小文字の悪だけだという結論をくださざるを得なくなりかかっていた。」
(S・キング「呪われた町」より)


この文章を最近よく思い出す(物語ではこう思っていた主人公がそのあと圧倒的な「大文字の悪」に出会うのだけど)。
「エルピス」が暗喩し、ルポ「殺人犯はそこにいる」が明記する現実というは確かにそこにある。それは大体が、ちいさな無数の善が作り出す壁と、小文字の悪がつくる落とし穴で守りに守られた大文字の悪によって成り立っているんだなとつくづく思う。

それでも私たちは絶望してるヒマなどないのだ。