「アンダーグラウンド」と駅の話 | フーテンひぐらし

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永遠の放課後。文化祭前夜のテンションで生きたい。なかなか大人になれない。

 

読書に「今さら」などないのだけど、個人的には「今ごろ読み始めてしまった」感が強い村上春樹「アンダーグラウンド」。文庫になっても、分厚くずしりと重い。
彼の小説は苦手意識が強くて読んでいないのだけど、これは小説じゃない。95年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー集だ。

 



当時私は広告会社勤務の20代で、あの頃は連日ニュースやワイドショーにオウムの幹部が出演し自分たちの主張と潔白を繰り返していた。オウムは日常に普通にそこにあった。サリン事件→教祖逮捕の一連の流れの後、私は「なぜ彼らはあのような集団になり、犯罪を起こすに至ったのか」が描かれている本をいくつか読んだ。「どうしてそうなったか」が知りたくて。加害者のいきさつ、その言動に至った思考を知りたかったのだ。
でも、よく考えたら被害者の人の声はこれまで読んだことがなかった。

冒頭に村上氏が述べているようにかなり丁寧に根気よく準備や気づかいがなされたインタビュー集で、淡々と、たくさんの人の声が収められている。駅員さん、乗客、医師、軽症ですんだ人から重い後遺症に苦しむ人までさまざまだ。

あの日、事件に遭ってしまったひとりひとりが普段どういう暮らしをしてどういう経路でその場に向かいそこに居合せてしまったのか、その後どういう生活をしているのかを丹念に読んでいくのはキツいんだけどものすごく意味があることだと思ってる。


被害者、犠牲者が数ではなく、ひとつひとつの顔として見れるから。だからその分、重たい。でもどんな場合でもマスとして、数や属性の集合体として人を見ないようにするってことは、いつも気をつけていたいなと思う。

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先日、ほろ酔いで日比谷線中目黒駅に降り立ち、トイレに寄ってさあ改札抜けるぞと思ったら、尻ポケットに入れておいたはずの定期入れがない。バッグにもない。ああ…落としてしまったと思ったので駅事務所に駆け込む。落とし物をしましたと言ったら、駅員さんに乗っていた位置を聞かれ、その後出てきた別の駅員さんに意外なことを言われた。
 

「これから探しにいきますが、一緒に行って探しますか?」
「えっ…そんなことできるんですか?」
「はい。その方が見つかりやすいし納得いかれるでしょう」
「じゃあ行きます」

すると、降車したホームとは逆のホームに昇ってゆくので「あの、逆ですけど」と言ったら「さっき降りた中目黒止まりは、今度こっちのホームに来て北千住行きになるんですよ」と言われた。なるほど。終点中目黒でお客を降ろした車両は、少し先に行った後、ポイント切り替えして今度は逆方面にゆくのか。

すでにお客を乗せて発車待ちの北千住行きの車内を、私と駅員さんは腰をかがめながら定期入れを探しまわる。これいつ発車するんだろう…早くしないとと思いつつ、心残りのないよう三両くらいをまわる。「ありませんでした…」と報告すると、彼は「ちょっと待ってて下さいね、車掌にも確認します」と最後尾の車両まで走って行った。

時刻だいじょうぶ…?いいよもう、なかったから…と私の方が焦る。駅事務所に行った時、杓子定規に「遺失物センターに届けておきます」くらいで終わらせられるだろうと思っていたのでこの親切丁寧さに驚いている。

電車は発車していったけど、その後もそのホームに残ったまま「もしかしたらこういうケースもあるかもしれませんね」「その場合はどうしたらいいんでしょう」みたいに、私は駅員さんに相談し続け、彼はすべての質問に丁寧に答えてくれた。既に勤務中の彼の時間をかなり奪っているので申し訳なく、同時にものすごく感謝していた。


「じゃ、いったん事務所戻って手続きしましょうか」と言われ、再び駅事務所にゆく。すると最初に受け付けてくれた駅員さんが「お客さんさっき御成門から乗ったっておっしゃいましたよね」と言う。「はいそうです!」
すると彼は自信に満ちたニヤリとした笑顔で定期入れを掲げ「これですか?」と言うではないか。「あっ!!それですそれです!」

どうやら私は乗っていた電車ではなく、その後の駅のトイレで定期入れを落としたらしい。私が出た後で入った女性が拾ってくれて、届けてくれたそうだ。あああ…そうだ…なぜ最初にトイレを探さなかったんだろうバカみたい…駅員さんに無駄な捜索をさせてしまったし電車の発車を少し遅らせてしまったかもしれない…。


本当にすいませんすいません!ありがとうございます助かりました!何度も言うと、彼らは「当然です」というような笑顔で頷いてくれた。そしてさらに言う。
「いま書いて頂いたお名前と、このPASMOにデータとして入ってるお名前、名字が違いますね」「はい、このPASMOはもうだいぶ前に定期として買ったんですがその時は結婚前だったので」「なるほど。今は定期としては使ってないんですね」「はい」「ではもしよかったら、次お時間ある時に定期券販売所にゆくといいですよ。今回のように落としてしまった時、中のデータでご本人確認できたりしますから、一応今のお名前に変更しておくことをおすすめします」「なるほど!」

最初から最後まで、なんて親切で丁寧なんだろう。なんてこちらの身になってくれてるんだろう。葉桜とはいえまだ花見客がひっきりなしに行き来する中目黒駅は、駅事務所にもしょっちゅうお客さんが来ている。なのにコンシェルジュ並みの親身さだ。感動という言葉が最近安っぽくてイヤなのだけど、感動した、としかいいようがない。



たまたま中目黒駅のその方々が素晴らしかったのかもしれないけど、でも後から「アンダーグラウンド」で何人かの駅員さんのインタビューを読んだ私は、これは駅で仕事をする人たちの基本姿勢なのではないかと勝手に思った。電車と駅の運営をスムーズにするという仕事だけでなく、何より駅を使う大勢の人たちのトラブルを取り除くこと。困りごとを解決すること。それを大事な使命だと思っておられるのではないかと。(実際サリン事件ではそのために命を落とされた方もいる)



この話には特に何のオチも結論もない。ただ、「アンダーグラウンド」でたくさんの「普通の人」のそれぞれの使命を読み、殊に駅ではたらく人々の使命感の強さに打たれ、そうしたら実際に私に対してその使命感を惜しげもなく使ってくれる駅員さんたちに出会った。本当にすごいと思った。ありがたくて泣きそうだった。それだけの話である。

 

 

 

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