そしてその身を どうするんだ | フーテンひぐらし

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永遠の放課後。文化祭前夜のテンションで生きたい。なかなか大人になれない。



例え話だが



もし、いま自分がいる会社や部署のやり方が
どうにもこうにも納得できない、
ここでそのまま過ごすのがイヤでもう耐えられない!とか思う場合


その事態から脱するために取るべき方法はいくつかある



ひとつは「自分自身が場所を変えてみる」


すっぱり転職する
または配置転換を申し出る



もうひとつは「その場所自体を変えようとする」


直属の上司や信頼できる先輩、
もしくはオフィシャルな会議などに
いまの問題点、納得のいかないことを提議して
改革を提案してみる




「ああああもう本当にイヤだー!」と思っているならば
現状を変える、もしくは前に進むためには
このどちらかを選択するべきである


前者は確実に現状を変えられるし


後者はそれでも簡単には変わらない可能性も大だが
でも、自ら行動を起こしてみることで
何らかの流れが少し変わるのだからとても重要だ




こういう時
私が心底意味わかんねーと思うのが


「納得できない」「イヤだ」「許せない」ということを
横のつながりだけで共有することだ


愚痴や思ってることが言いやすい同僚や友人と共に
仕事帰りの飲み屋だとかソーシャルなメディアだとかで
「だよねーー」「本当そう思う!」「どうにかして欲しいっ」と言い合って終わる


同じ感想を持つ人の人数を増やしてチームをつくって気炎を上げる


ただそれだけに終始することだ




それに何の意味が?
事態は何ひとつ変わらんのに


「私たちがこんなに許せないと思っていることを
 いつか上の人たちが気づいてくれるべき!」


そう思って表向きは変わらない日々を暮らしている。
鈍な上の人たちに毎日業を煮やしながら。



こういうことを言うとよく
「そりゃアナタは社長にだって好きなこと言える立場だからいいけどさ」
的な反応がかえってくるけど


絶対君主制の世の中でもあるまいしアホかと


「言える人」と「言えない人」を決めているのはおのれだろう




そんな「自ら動かない理由」を色々とあげつらって
誰かの気づきを待ったり、誰かのせいにして暮らしたり
そんな1分1秒こそが無駄だと思わないのであろうか。


「私はこんなに日々納得いかない思いでいるのに
 何も文句言わず働いてる人たちは何も感じないわけ?
 あの人たちは優遇されているの?鈍感なの?」


そんなふうに思っているのは大間違いで


その人たちはもしかしたら
その状況を打破するために人知れず黙々と動いていたり
その状況下でも前向きにはたらく理由を見つけていたりするかもしれないのである



「何も言わないこと」が
「何も考えていないこと」ではないと知れよ
と思うのだ




その例え話で何が言いたいかと言うと



今回の震災のもろもろにおいて
それに近いことをたまに見聞きするのである


(※被災者の方々だったり、高齢だったり病のある人だったり、

 守るべき小さな者がいる人たちは例外だが)



本当にこの状況が一刻を争う命の危険だと思うならば
自分の人生を真剣に整理して転地すべきであるし


どうにかしてこの危機感を、納得いかない思いを上に届けたいぜ!と思うならば
先日おこなわれた反原発デモに参加してみたり
政府や東電の、意見を聞くと書かれているサイトに投稿してみたり
選挙で自分なりの一票を投じたりすべきである



特にそれらをしないで
ただ「ここはもうダメ」「この先ヤバイ」「怖いつらいもう無理」「可哀相」みたいなことを、

自分の周囲にやたらめったら吹聴し共有を迫ることに何の意味がある



もちろん
喋ることで自分と聞き手の不安が解消されるから
それこそが大事な目的なのだと言うならとても有効だし
自分たちの心のためにやったらいいと思うが


そうでないのならば少しだけ深呼吸して息をととのえるべきである




首都圏よりも遥かに原発に至近の被災地で
平静な気持ちと暮らしを立て直すために
他の土地に移動せず暮らしているひとたちだって


自分たちで物資を集めて自ら東北に車を走らせ
物資を配ったりボランティアをしているひとたちだって


そして
日常を普通に楽しんだり
経済活動だー!と言って

外食や花見にいそしんだりしているひとたちだって




内心不安なことはたくさんあるに違いないのだ



だけど
あえてそれを口には出さない暮らし方というのもあるのだ



口に出さずに


目の前の暮らしのために一生懸命だったり
誰かのために行動していたり
多くの人の心をほぐすためにあえてアホな言動をしてみたり
自分が今やれることを淡々とやっていたりするのだ



もしかしたら
自分でさまざまな危険について調べて対策を取っているかもだし
黙って支援活動やデモに参加しているかもだし
そのどれもできないから、せめて元気にアホに暮らそうと思っているかもしれない



ただそのことを
声を大にして表現していないだけなのだ



だからそういう静かな、
または能天気に見えるひとたちを
「何それ?無関心なの?それとも平気なわけ??」
勝手に決めるなよ と思うのである




自分だけが考えて憂いている、と思っているあなたの大声は
あなたの感情アピールにしか過ぎず
前に進むためには特に役に立っていないかもしれない
それどころか周囲にストレスと無用な不安を与えている可能性もある



なのに 大きく泣いたり怒ったりすることだけが
それだけが情であり義であるのだと 勘違いするなと思うのである




憂うなら誰かのために必死で祈れ、明かりをともせ
祈らないなら「俺こう動く」と静かに決めれ




今日で震災から1ヶ月。


被災地以外のわたしたちは

受け止め方も過ごし方も防御の仕方も
支援の仕方も人それぞれでいい



だけど
上っつらに見えるものだけで
右へ左へと気持ちをざわつかせないでいこう



さまざまな感情のあとには
「じゃあ私はそのために何する?」と問うていこう



そして
自分のため
または誰かのために
できることを自分なりにやっていこう



可能なひとは
なるべく元気に暮らそう




そして
のほほんと見える他人も
その人なりに思うことややっていることがあるのだ、と
ほんわり信じていこう